ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第七話「立太子式の裏側で」




 ハルケギニアの暦法では八番目の月であるニイドの月半ば、リシャールは妻子を連れて王都トリスタニアに来ていた。
 立太子式を翌日に控えた王都トリスタニアの社交界は、表向きは静かな中にも、様々な交わりがそこかしこで行われている。リシャールの王都行きもアンリエッタ姫の立太子式への参加が目的だったが、無論、付随する諸々の余録へと顔を出さねばならなかった。
「セルフィーユ伯、お久しぶりですな」
「リーニュ侯爵様、こちらこそご無沙汰しております」
 ちなみにリシャールはその日、ラ・ヴァリエール家の別邸で近しい親族のみを集めた懇親会のようなものに参加していた。義父からの頼まれ事もあって少し気の抜けない部分もあるが、身内だけの集まりと心持ち楽な姿勢で臨んでもいる。王家主催の公式行事に比べれば、何ほどのことはなかった。
 この人は義父公爵の従兄で元軍人だったかな、ああこちらは確か外務卿配下の文官で……などと、相手が変わるごとに時々つっかえては思い出しながら談笑する。親族だけあってか、何となく雰囲気の似ている人物が多いのが少々困りものだ。
 また新参ではあってもリシャールの立ち位置は本家の娘婿とあって、扱いの良いことが逆に困惑の種でもあった。義父よりも年輩で爵位も高い当主などに頭を下げられると、どうにも居心地が悪いのである。
「うちの末の息子です。
 このような席に連れてくるのも初めてでしてな。
 さ、教えたとおり挨拶を」
「セルフィーユ伯爵様、えーっと……お初にお目に掛かります。
 ジャ、ジャック・フェルディナン・ル・ブラン・ド・リーニュが第四子、カジミール・エドモン・ル・ブラン・ド・リーニュと申します」
「はい、ご丁寧にありがとうございます。
 私はリシャール・ド・セルフィーユと申します」
 『我らはアンリエッタ姫殿下を支持する』とラ・ヴァリエール公爵が宣言をして、皆がそれに賛同したことで難しい話は早々に終わっている。対抗馬のいない立太子では、王家も貴族達も御家の命運を掛けたお家騒動などやりようがない。
 それにこれは大身であるラ・ヴァリエール特有の反応とも云うべきか、アンリエッタ姫の王配を巡る争奪戦は社交界の水面下では始まっているが、この場にいる者でそれに興味を示している者はいなかった。ラ・ヴァリエールの一族より王配を輩出したとて、面倒ばかりであまりうま味がないことを皆が承知しているのだ。重くなるとわかっているしがらみなど、望んで身に寄せたい者は希有である。
 いまは身内の集まりであって、リシャールもその他の当主衆も会場となっている広間をうろうろとして挨拶を交わし、重い話を避けて近況や噂話を肴に軽く酒杯を掲げていた。
「伯爵様はお幾つなんですか?」
「これ、カジミール! いきなり失礼ではないか!」
「父上!?」
「相手方に聞きたいことがある場合でも、話の枕には何某かのだな……」
「あー、おほん、侯爵様?」
「む!? ……ああ、済まぬ。そうであったな」
「失礼、カジミール殿。
 私は姫殿下と同じ、十五歳です。
 カジミール殿はお幾つでいらっしゃいますか?」
「僕はこの間、十になりました!
 僕と五つしか違わないのに、すごいですね!
 もうご結婚もされて、お子さまもいらっしゃるんでしょう?」
「はい、その通りですよ」
 そのカトレアとマリーは、やはり同じ別邸の中で行われている茶話会に出席中だ。リシャールのいる懇親会は男性が中心で、あちらはその夫人や令嬢、そして懇親会へと出席させるにはまだ小さな令息達が集まっている。休憩や食事を挟んだ後、夜にはそのまま統合されて夜会となり、更に多くの人々が別邸へと入る予定になっていた。
「セルフィーユ伯、先ほどは済まなかったな」
「この場は若い世代が社交術を学ぶための場であるともお聞きしていますから、私がお役に立てたのであれば幸いです。
 流石に皆様のように、場慣れしてないご子息方から上手く失敗を引き出して、その取り繕い方までお伝えするのは無理ですが……」
「ふふ、貴殿には適わぬな。
 いや、世話になった」
 居並ぶ当主衆の中では、一際年若いリシャールである。義父からは、社交界へのお目見えも間近な年少組でも話しかけやすかろう、よく目を配ってやって欲しいなどと開場前にこっそり耳打ちされていた。
 実家で公子クロードの従者をしていた頃、彼が夜会に出る前に、アルトワ伯らの見守る中練習相手をしていたなと思い出しながら、声を掛け、あるいは声を掛けられする。
 いつもこのぐらいの、少しの緊張感とその場の機転と手間だけで済む御役目ならば楽なのになあと、内心で苦笑しながら公子達の相手をするリシャールだった。

 明けて立太子式当日、王城の一番大きな広間では、アルビオン国王ジェームズ一世を迎えるべく貴族百官が席次に従って並び、その時を待っていた。リシャールももちろん、その中に混じっている。
 高い天井の下にいる正装の数百人は全て男爵以上の爵位を持つ家の当主で、赤絨毯が彼らを左右に分けたその先、一段高くなった場所の玉座を空けた隣にマリアンヌが座していた。本日の主役であるアンリエッタは禊ぎの後に特別な一室にて待機しており、この場には居ない。
「間もなくの御到着にございます! 間もなくの御到着にございます!」
 足音を消した従者たちが小走りに小声と、目立たぬように広間の隅を駆けて回り、やがて静寂が場を支配した。
 ジェームズ王はアンリエッタの伯父として、立太子式に於いては国王の代役を勤めることとなっていた。始祖の血を受け継ぐ三国の王にして彼女の父の実兄であり、後見としてもこれ以上の人選はない。アンリエッタを影響下に置きたい貴族達も、その役得を自分のものに……などという不服はあったとて、隣国の王が相手では手の出しようがなかった。
 この準備の為にリシャールは少々面倒なことに巻き込まれたのだが、禍福は糾える縄の如し、今となってはよい経験であったとも思っている。空賊の襲撃に逮捕状、一時はどうなることかと思ったが、結果だけ見ればアルビオンとは良い繋ぎが取れてマスケット銃の販売も順調、新しいフネも安く……はなかったが手に入りと、苦労に見合う報酬はあった。
「アルビオン王国国王ジェームズ一世陛下、アルビオン王国皇太子ウェールズ殿下御入来!」
 先触れの大音声に姿勢を正し、リシャールも周囲に倣って跪いた。
 赤絨毯を踏みしめる静かな足音が、通り過ぎて行く。
「遠路ようこそお出で下さいました、ジェームズ陛下、ウェールズ殿下」
「此度の立太子、トリステインにとりまこと重畳とお慶び申し上げる」
 臣下一同の前とあって、形式張ったやり取りがしばらく続き、両王家の三人は城の内奥へと消えていった。
 立太子式そのものは、秘儀として極僅かな関係者のみが立ち会いを許されているだけで、数千年来続く神聖な儀式が行われるという以外、中身も世間には知られていない。後ほど行われるお披露目式にて新たな皇太子の宣誓や立会人の宣言などが行われるが、そちらの方が『立太子式』として知られているほどである。
 一旦解散が告げられた広間にはざわざわと喧騒が戻り、リシャールも退出する人の流れに混じりながら祖父とアルトワ伯に近づいた。トリステインで伯爵位を持つ貴族は総勢四十余名、法衣貴族と諸侯はほぼ同数でそれが分かれて並んでいたのだから、お互い見つけるのに苦労はない。
「やあ、リシャール」
「お爺様、伯爵様」
「おお、リシャールよ、これからアルトワ伯らと香茶でも飲みながら時間を潰そうと思っていたのだが、用がなければお主も来るか?
 お披露目の式までは時間も在ろう?」
「ごめんなさい、妻子の迎えとは別にフネを迎えに行かねばなりませんので……。
 お披露目式も欠席を許されているんです」
 リシャールは、姫殿下直々の命により活魚の納品を求められたことを手短に話した。油漬けなどのセルフィーユ産の海産物ともども、本日の夜会にて酒肴とされる予定である。
「前に『どうやっても赤字になる……』とぼやいていた、あれかい?」
「はい、そうです。
 王都なら定期便に便乗させれば、そう大きな負担でもないかと思ったのですが……」
「ふむ、アルトワでも需要はあるだろうけど、魚一匹に何エキューも出すのは躊躇うね」
 航行中の活魚の維持だけならそう負担でもなかったのだが、市街に運んでからが問題だった。魚が弱る前に売り切ろうにも、商品寿命を最長に見込んだとして出荷より約一週間、それに必ずその間に売れるとは限らない。氷漬けの魚なら、メイジの一人二人を専任として宛っておけば余計に数日保たせるのに不都合ないが、活魚はそうもいかないのだ。
 定期便の空き荷を利用しても、それ以外の部分で通常の氷漬けで運ばれる鮮魚の価格とはやはり太刀打ちできず、デルマー商会の会頭シモンと収支予想を書き付けた紙束を前に協議した結果、商売としては諦めた。一番大きな問題点は、手間を飲み込んだ売価が呆れるほどに高くなりそうだということだった。今回のアンリエッタからの依頼のように、大口の予約のみに対象を絞れば赤字にはならないだろうが、珍しいと目を引く部分だけで商売をするには限界もある。
 リシャールから移動水槽一式を買ったアルビオンの商会は商売になると判断したようだが、海からの距離を主要因とする流通事情の点でトリステインと大きく状況が異なる。あちらは元より魚介類を専門とする商会で、宣伝も兼ねて上手くやれると踏んだのだろう。
 それでも、今回は損益が出ているわけではない。費用も王家持ちであるし、大して懐が潤わずとも面目を施せるだけ幾らかましだ。
 リシャールは何とはなく集まってきたギーヴァルシュ侯爵らとも挨拶を交わしてから、素早く大広間を辞した。アルビオン王家の到着が若干遅れていたこともあって、セルフィーユから活魚を運んでくる『ドラゴン・デュ・テーレ』と『カドー・ジェネルー』の到着予定が迫っていることに気付いたのだ。

 王城の竜舎に預けていたアーシャに飛び乗り、空港へと急ぐ。正装のままだが、着替えている暇はなかった。
「リシャール、いつものフネのところでいいの?」
「うん、もう着いてると思う」
「わかった」
 王城からはアーシャで数分の距離のこと、着いた港では荷役が始まっていた。『ドラゴン・デュ・テーレ』と『カドー・ジェネルー』が並んで係留されているその間で、領空海軍の士官が杖を振るって水槽を竜篭へと積み込もうとしている。
 今回王城へと荷を届けるのには、馬車ではなく王城より差し回された竜篭を使うことになっていた。市内では立太子式を祝してパレードが行われるので、馬車が使えないのだ。こちらも夜会より前に荷を届けねばならないが、まさか主役を押しのけるわけにもいかない。
 二隻を率いてきたラ・ラメーを見つけて敬礼を交わし、慌ただしく情報交換する。
「閣下、こちらへ派遣されてきた竜篭は三、八往復にて全ての水槽が運べる予定であります」
「よろしく頼みます。
 ああ、私は最初の一便に同行します。
 その後は準備やら夜会やらでこちらには顔を出せませんが、明日、空の水槽を引き取った後は、予定通り『カドー・ジェネルー』のみセルフィーユへと帰投して下さい」
「は、了解いたしました」
 再び内部をお召し艦仕様に模様替えした『ドラゴン・デュ・テーレ』は、一昨々日カトレアらの送迎に王都を往復したばかり、『カドー・ジェネルー』は一日前倒ししての運航と、それぞれに忙しかった。
「竜篭の準備が整いました!」
 息着く暇もないが、それは後だ。
 リシャールはアーシャに竜篭を先導させ、パレードの行われる中心街を大きく迂回しながら再び王城へととって返した。

 王城の竜舎前で荷の申し送りをして城内でも最奥に近い場所にある大厨房へと向かい、城の料理長らと活魚やイワシの油漬けについて幾つか意見を交換していると、その間にも活魚が次々と運び込まれてくる。戦場さながらの様子に長居するのも悪いかと、八往復分全ての荷の引き渡しが終わって夜会に持ち込まれるガラス製の水槽を確認するなり、後は詳しい家臣に任せてリシャールは早々に城を辞し、今度はラ・ヴァリエール家の別邸に急いだ。
「お帰りなさいませ、リシャール様。
 カトレア様と公爵家の皆様は夜会の準備、マリー様はお昼寝中でございます」
「うん、ありがとう」
 先ほど上空から見下ろした時に祝賀パレードが終わっていたことは確認している。日も傾き始めていたから、余り余裕はない。
 自分も用意された客間に戻り、別邸から応援に来ている自家のメイドに、自分の夜会着の準備と軽食を頼む。
 夜会だ懇親会だと、ラ・ヴァリエールの別邸で行われる行事が続いたことで、別邸専任の執事とメイド数名を残し、セルフィーユ勢は昨日よりこちらに移動していた。リシャールの持つ別邸ではほぼ満員に近い総勢三十名ほどを苦もなく受け入れるこちらの屋敷に格の違いを感じつつも、それどころではないかと頭を切り換える。
 食事を済ませて着替え終わる頃には、もう外は暗くなっていた。
「あらリシャール、戻っていたのね」
「ただいま。
 うん、よく似合ってるよ」
「うふ、ありがとう」
 新しく贈った薄桃色のドレスでくるりと回ってみせるカトレアに、美人に綺麗な衣装はいいものだなあと感想を抱く。今ひとつ褒め言葉の語彙に欠けている自覚はあったが、だからと言って彼女の美しさが損なわれるわけではない。それでも、娘時代の雰囲気を色濃く表に出す彼女は久しぶりに見たかなと、リシャールはカトレアを抱き寄せてキスを贈った。
 ……マリーを蔑ろにしているわけではないが、それはそれ、これはこれなのである。

 セルフィーユ、ラ・ヴァリエール両家の出発は予定より少し早かったが、王城の門が見える大通りに出たあたりには、丁度良い時刻になっていた。昼に行われたパレードが影響したものか、混雑具合が年初の祝賀会以上であったのだ。
 道中も街路では、王城へと急ぐ貴族の馬車と祝いに繰り出す平民がひしめき合い、更には許可を得たのか得ぬものか、そこかしこに露天商が店を開き、狭い道幅を余計に狭くしていたから収拾がつかない様子だった。
「降誕祭よりも賑やかですわね」
「そうだな。
 ここしばらくでは一番の祝い事であろうし……」
「あうー!」
「あら、マリーもお外を見る?」
 公爵家の馬車には公爵家の四人に加え、マリーも含めてセルフィーユ家の三人が座っていたが、それでもなお余裕がある室内にはため息の出るリシャールであった。
 ちなみにセルフィーユ家も登城に馬車を出さぬというわけにはいかず、そちらは主人不在のまま、ジャン・マルク夫妻が代理として乗せられている。控え室の手配や、数は少ないがリシャールらを尋ねてくる客人への応対にも人を割いておかねばならない故の配慮であった。こちらもそうだが、城の方でも馬車の紋章で客人の到着・滞在・退出を知るから、昼間のように別命を帯びているならばともかく、公式行事に於いてやはり馬車なしでの登城は拙かった。
「せめて市街の大門から王城までの道だけでも拡幅をするように進言した者も居ったのだがな、議論を重ねた末、取りやめになっている。
 リシャール、お主はこれを聞いてどう思う?」
「セルフィーユではこの道幅でも十分だとは思いますが、王都ではそうもいかないのでしょうね。
 王都では人口当たりの馬車の数もうちとは比較にならないと思いますし、そこに地方からやってくる荷や人を乗せた馬車が加わるとなるとこれでもまだ狭い、ということは何となく理解できます」
 とは言いつつも、新市街の方は王都の大通りよりも広い八メイルの道幅で主要道を確保していたリシャールである。将来の商都化を見越し、駐停車する馬車を横目に対面通行出来る道幅の確保を命じた故だが、今はそれが裏目に出て、祭りでもなければ少々寂しく見えてしまっていた。
「交通の便を考えればその通りだな」
「それでも取りやめになっている、となると……もしかして、立ち退きを求められた住民や、街区に利権を持つ貴族からの反発が強かったのですか?」
「ふむ、着眼点は悪くないが、方向が違う。
 そのようなものは勅令の一つで済むからな。
 すぐには思いつかぬか?」
「はい、降参です」
「トリスタニアの街は、王を守る最後の砦でもあるのだ。
 ……そう言えば、お主にもわかるか?」
 公爵の言葉に、リシャールはなるほどと頷いた。
 現代日本で新しく作られることはまずないだろうが、古い城下町や城で、例えば道を意図して斜めに走らせたり、あるいは細くして曲がりくねらせたりと、市街戦・攻城戦を考慮してありとあらゆる工夫を施された防備計画の上に成り立っている都市があった。現代では名所旧跡と同列の扱いでしかないものだが、このハルケギニアでは比較的重視される要素である。
「万が一の備えを重視した造り故に、多少の不都合は目を瞑っているのだ。
 両立出来る無理と出来ない無理があるからな」
「そう言えば、ゲルマニアのヴィンドボナはトリスタニアの何倍も道幅が広かった覚えがあります。
 あちらは都市の守りに目を瞑り、利便性に天秤を傾けたわけですね」
「その通りだ。
 ……セルフィーユも道幅は広い方だったか?」
 道の幅など誰に隠しとおせるものではないが、流石によく調べてあるなあと苦笑する。領地につけ家につけ、何かと心配をかけているので、リシャールはそれらを大人しく受け入れることにしていた。いまはまだ、雛鳥であるセルフィーユとリシャールなのである。
「うちは商業を重視していますから、そちら寄りになってしまいますね」
「もしも……例えば、ゲルマニアから攻められた場合の方策はどうなのだ?」
 ここしばらくと言わず、義父からは何かと質問を投げかけられるのでなかなかに気が抜けないリシャールである。
「ゲルマニア陸軍の総兵力は十万を超える程度だったと記憶していますが、全部がこちらに来ないにしても、百に満たない領軍では、正面から一個連隊でも攻めて来られたらその時点でどうしようもありません。
 地の利を活かして部隊を縦横に動かし、時間を稼いで領民を逃がすのが唯一の策でしょうか。
 領空海軍の方も正面からの戦は避けて、敵の行動を遅らせることが最良だと思います」
「リシャール、戦わないの?」
 どうしてという顔のルイズに、リシャールはそうだよと頷いた。
 元王軍の将官と元魔法衛士隊の隊長でもある公爵夫妻が黙っているところを見ると、思うところはあれどそれも一つの回答と納得されているようである。
「うん、絶対に真っ正面からは戦わない。
 時間を稼いで領民を逃がして、援軍を待つよ」
 実際に戦争となった場合、セルフィーユだけが攻められるわけはないので援軍そのものが期待薄なのだが、そのことは口にしなかった。
 しかしルイズは納得が行かなかったようである。
「貴族は敵に背を向けないものよ?
 わたしはお父様たちにそう教えられてきたわ。
 貴族の誇りのより所だって……」
 貴族は敵に背を向けない。
 なるほど、これはある一面まったく正しいことだと、リシャールも思った。

 敵に背を向けないとは、即ち舐められないこと。
 これは何も、決闘の相手だけに限るものではない。戦争の敵手だけでも、商売敵だけでもない。リシャールら貴族の場合は、特に平民からのそれが問題になる。
 その裏に込められた意味合いは受け取る側の立場で少しばかり異なるかもしれないが、貴族のありかたを表したものとして貴族同士の間だけでなく、支配層と被支配層である貴族と平民の間にこそ重要な要素であろう。
 貴族と平民という構造で支配層と被支配層が明確に分けられているハルケギニアとは少し事情は異なるが、現代日本でも、身分差は法の元ではないものとされて久しくとも形骸化したとは言い難い。本家と分家、上司と部下、あるいは先輩と後輩。それら上下の関係性に於いて、それなりの答えを見出さざるを得なかったリシャールである。自らの気持ちと外に出る態度に大きな乖離や齟齬が産まれず、多少目立つ程度で心と折り合いをつけていることは、身を守る手だての一つともなっていた。
 舐められた上司に部下は着いていかない。
 無論、舐められた貴族に領民が着いてくるはずもなかった。
 領民に甘いと義父や祖父から度々窘められているリシャールだが、何も魔法と武力を前面に押し出すだけが支配ではない。十代半ばの若い領主が領民から不必要に落とされたり舐められたりしていない理由の一つに、その経済力があった。更には、創家直後の懐具合が苦しい中で領軍を揃えて領内の安全を計っていたが、これも裏を返せば内乱の抑止に欠かせないものだ。甘く見えても締めるところはきっちりと締めているのである。
 翻って貴族間でのリシャールおよびセルフィーユ家の評価はと言えば、ラ・ヴァリエールを後ろ盾にトリステイン王家の覚えもめでたく、先日の海賊襲撃時のような相応の理由や隙がなければ手を出しにくい相手と見られていた。こちらは降りかかってくる面倒事とバランスが取れているのかどうか、リシャール自身にも判断のつかない部分も多いのが困りものだった。

 義父らの手前もあるかと、リシャールは少し考えをまとめてから話を続けることにした。
「僕もそれは正しいと思う」
「だったら……」
「うん、だから一番大事なものには、背を向けていないよ」
 リシャールは『貴族の誇りに賭けて』とは言わなかった。領地や爵位といった貴族に求められる義務を疎かにしていない最大の理由は、家族のためであったからだ。夫として親として、そして大人としての義務だと、リシャールは受け止めていた。ハルケギニアの貴族としては外れているかも知れないが、自分の中で譲れない一線でもある。
「一番大事なもの?」
「うん。
 先ほどの話の続きになるけれど、戦争にならないように努力すること。
 実態のないあやふやな相手だけど、今はこれが一番の敵かなあ……」
 無論、理想が道徳観念が愛が、などといった平和教育的な思想にかぶれての発言ではない。領主としても個人としても、戦争は非常に困るのだ。遠く離れた場所のそれでも物価物流に影響を及ぼすし、特に領内でそのようなことが行われれば全てが喪われる結果となろう。
 それに戦争はリシャールと家族、そして領民の命を直接危険にさらしてしまうのである。TVの向こうの遠い話などではないのだ。
「王国の現在の方針でもあるけれど、余所の国と喧嘩をしないことは、うちの領地や家にとっても理に適っているんだ。
 もちろん、こちらが戦争したくないとしても、相手がそれに応じてくれる保証はないからね。
 だからうちも、例えばゲルマニアとの交易は盛んだけれど、王命によって東の国境に睨みを効かせてもいるし、兵士達の訓練もしているよ」
「……戦争したくないのに戦争の準備もしてるなんて、何だかちぐはぐだわ」
「そうだね。
 だからもう一つ、同じくゲルマニアのことになるけれど、うちと戦争すると損だと知って貰うように仕向けたりもしているよ」
「そんなことまでしてるの!?」
 ルイズには少々難しい内容だったかも知れないなと、リシャールは頭を掻いた。カトレアも、あらまあと言う顔をしている。その様子を感じ取ったのか、マリーまでもがこちらをじっと見ているので、リシャールは娘を優しく撫でてから話を戻した。
「これは以前、公爵様にはお話ししているけれど……。
 セルフィーユが今、街道を造っていることはルイズも知っているよね?」
「ええ。あの新しかった道ね」
「うん。
 これはもちろん将来の商業都市化を狙ってのことなんだけれど、商売には相手が必要で、この場合はゲルマニアとトリステインの両方が相手になるね。
 うちも当然利益を得るけれど、ここで独り占めをしてしまうと両方から睨まれてしまうから、ゲルマニアとトリステインにも利益を得てもらわないといけない。
 子供がおやつを分ける時に、取り分で揉めるのと変わらないかな?
 誰が独り占めしようとすると、喧嘩になる」
「ええ、そうね」
「なんだかきな臭い話になってきたわね。
 ……その喧嘩って、戦争でしょ?」
 エレオノールには苦笑されたが、おやつを独り占めしたい子供と大して変わらない理由で起きる戦争もある。そうあり得ない話でもなかった。
「ええ、そうなります。
 ですが、独り占めをしてしまったら最後、次の日からはおやつそのものが無くなるとなると、どうでしょうか?」
「喧嘩はしない方がいいわね」
「はい、その通りです。
 セルフィーユがなくなると、おやつが食べられなくなります。
 代わりのおやつを用意するにしても、次の日からすぐというわけにいきませんし、おやつの代金以上に喧嘩した時に出来た怪我の治療費がかかってしまいますから、後々おやつが独占できたとしても……とても割に合いません」
 ゲルマニアがセルフィーユだけを得ることは、とても難しい。
 限定的な戦争を行ってセルフィーユを占領すればそれで戦が終わりなどというわけはなく、トリステイン王国全体が相手になってしまうからだ。戦後の交渉で国境に近い位置にあるセルフィーユがゲルマニア領となってしまう可能性は高くとも、その前の段階では東の国境の全てが戦場になるだろう。
 ましてや無血での併合など、トリステインが許すはずもない。
 これこそが、リシャールが公爵や祖父を納得させたセルフィーユの基本方針であり、長く安定が続くように仕掛けた真の一手でもあった。まだ手を着けはじめたところで実際には問題点も後から後からわき出してくるだろうが、大筋に変化はない。
「一番困るのは、偶発的な原因で争い事が起きてしまうことなんだけど、こればかりはもう努力でなんとかなるものじゃないからね……」
「……領主様は大変ね」
 それこそ『貴族は敵に背を向けない』が戦の引き金になるかもなあと、内心でつぶやいてみる。
「ほんとにね。
 ……ところが独り占めをしていないのに、うちだけは随分と得をする予定なんだ。
 どうしてかわかる?」
「もう!
 こんがらがって頭が痛くなりそうよ」
「ごめんごめん。
 かみ砕いて言うと、セルフィーユだけは物を売る商売以外の利益があるんだ。
 人が集まってくるからね、港の使用料に宿代、食事代、馬車馬の飼い葉も売れるかな。ついでに情報なんかも手に入るね。
 これも広い意味では商売になるけど……どうかな?」
「はあ……。
 ほんとのほんとに降参だわ」
 丁度馬車が王城の正門をくぐったことで、リシャールは話を切り上げることにして、篝火と魔法の燭光に彩られた王城を見上げた。



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