螺旋の海 第3話

「聞かせてあげられるのはここまでだよ。やっとわかったんだ……。このテープを聞いてやっとわかったんだ。僕がどこへ行くべきか……やっとわかったよ、Dr.テンマ」


 ヨハンはカセットテープにテンマへのメッセージを吹き込む。テープは上書きされたため、この先を聞くのはもう不可能だ。
「あら、あなた男だったの」
 そばのベッドでおとなしく聞いていた婦人――ヤン・スーク刑事の母親がそう呟く。彼女が誤解するのも無理はない。今のヨハンは金髪の長い女性――アンナの姿だった。ヨハンは微笑み、再び女の声になる。
「ええ。もうすぐヤンのお友達がここに来るわ。入院しているあなたの大切な息子さんのことを思ってね。その時は彼らにこのテープを渡してください」
「入院……? ヤンが? 待って、どういうことなの?」
「それじゃ、お元気で」


 テープの内容の多くは上書きで消え、テンマがヨハンより先回りすることはないだろう。グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』で道しるべのため森にパンくずを落としたように、ヨハンもテンマに向けて手がかりを残してきた。
 将来を嘱望された若き刑事が、筋肉弛緩剤入りの菓子で三人の上司らを殺害、一転して事件の重要参考人となる――。テンマなら、この意味を即座に理解できるだろう。背後にヨハンがいると真っ先に思うはずだ。
 ヨハンのメッセージを聴くテンマを想像して目を細めると、ヨハンは病室を後にした。



 プラハを訪れたヨハンが最初に行なったのが、511キンダーハイム元院長ラインハルト・ビーアマンを殺害することだった。次いで、プラハ警察や旧チェコスロバキア秘密警察の人間を排除し、ビーアマンの周辺を探っていた511出身のジャーナリスト、ヴォルフガング・グリマーを泳がせ、ヤン・スークを罠に嵌めた。
 その結果ようやく手にしたのが、511出身者名簿と実験データ、そして幼きヨハンの面接テープだった。


 テープには、催眠療法と薬物投与で尋問されているヨハン自身の声が録音されていた。
 テープの中のヨハンは『なまえのないかいぶつ』を時々交えながら、511に至るまでの過去を支離滅裂なまま口にした。理路整然とはいかないが、これでヨハンの過去の大部分が明らかになった。
 母と双子の三人でひっそりと暮らしていた、三匹のカエルの小さなアパート。そこから赤いバラの屋敷にヨハンが連れ去られ、真っ暗な部屋に閉じ込められた。
 その部屋を出た途端に投げかけられた、怪物の恐ろしい言葉。大広間でワインを飲んだ大勢の大人たちの死。逃げ出したヨハンを出迎えてくれたもう一人の分身……。


 テープによりわかったのは、ヨハンの次の行き先はただひとつ。赤いバラの屋敷しかないということだった。



 それはヨハンにとっても青天の霹靂だった。
 赤いバラの屋敷の関係者のメモを手に入れるため、一旦ドイツのデュッセルドルフに戻り、ホテルでロベルトと接触していた時のことだ。
「それにしても、見ないうちにかなり痩せたようだね」
「ああ、すっかりな」
「右腕の具合はどう?」
「まだ麻痺が残ってる。だが、銃は左でも慣れた。問題ない。……それよりヨハン、今面白いニュースがやってるぜ」
「ニュース?」
 ロベルトがリモコンでテレビを点け、ニュース番組にチャンネルを変える。映し出された画面には、沈痛な面持ちをしたDr.テンマがいた。
「ついに捕まったんだとよ。プラハでな。あんたの後を飽きずに追い回した結果がこれだ」
 ヨハンは画面の中のテンマを凝視する。すべての闇を抱え込んだような、救いのない表情。――だめだ。彼の旅をここで終わらせるわけにはいかない。


「……ロベルト。ヴァーデマンのメモの他に、ついでに仕事を増やしてもいいかな」
「それはいいが、どうするんだ?」
「エヴァ・ハイネマンを使う。弁護士としてDr.テンマと接見し、僕の顔を知っている彼女を殺すとでも脅せば、彼は間違いなく脱獄を決意する」
「たかが女のために、それもとっくの昔に別れた女のためにか? わざわざそこまでするかね」
「するよ。彼はそういう人間だからね」
「ヨハンが言うならそうなんだろうが、俺にはまったく理解できないな」
 大袈裟な仕草で両手を広げ、ため息をつくロベルト。ヨハンは小さく笑い、続けて指示を出す。
「その後はエヴァ本人に君の存在を仄めかせばいい」
「そこまでするのか?」
「今後のために彼女をペトル・チャペックの監視下に置いておきたいからね。君を恐れた彼女はそう選択せざるを得ない」
「ペトル・チャペック……ヴォルフ将軍の組織の内の一人か」


 己の野心のため、ヨハンを利用して勢力拡大を目論む眼鏡の男。旧チェコスロバキア秘密警察にヨハンのテープを依頼していたのがこの男だったことは既に掴んでいる。
 だが、ヨハンはもっと前からチャペックを知っていたことに最近気づいた。ヨハンは子供の頃、この男の顔を目にしたことがある。
 プラハに行くまでヨハンも気づかなかった、その正体。チェコスロバキアから亡命してきた、怪物の弟子にして赤いバラの屋敷の生き残り。彼こそ怪物の鍵を握る、ただ一人の男――。


 ヨハンはロベルトにテンマへの手紙を渡す。これでテンマも赤いバラの屋敷に向かうことだろう。
「ロベルト、そろそろDr.テンマを生かし続ける理由を言おうか。彼にはある役目があるんだ」
「……役目?」
「そう、Dr.テンマは最後にひとり残る人間なんだ。僕を生き返らせた責務として、僕と共に怪物を共有しなければならない。ひいては彼だけが終わりの風景を見ることができる。僕が見たあの風景を」
「………………」
「ヴォルフ将軍の次は、彼しかいない」
 ヨハンが静かに告げると、ロベルトはしばらく沈黙した後、そうか、とだけ言った。



 その後、ヨハンの思惑通り、テンマは護送車から脱走した。
 一方ヨハンは、結局ヴァーデマンのメモを手に入れることができなかった。仕方がないので、記憶とテープを手がかりにプラハ郊外の赤いバラの屋敷へと向かう。


 三匹のカエルからどんな道を辿ったのか、昔何度もアンナに話したことがあった。
『左に街を見ながら河沿いを路面電車と一緒に走る……右に風見鶏、左に教会の尖塔……』
 頭の中で、テープにもあった目印の場所を幾度となく繰り返す。
 街の隙間を縫う冷たい風が、ヨハンの長いブロンドの髪と白いコート、黒のワンピースを揺らしていく。赤いバラの屋敷に連れ去られたあの時をなぞるように、今はアンナの姿だった。


 日が暮れ、プラハの閑静な住宅街は暗闇に包まれ始めた。これでは目印を見つけることができない。今日はもう切り上げ、ヨハンは先にチェックインを済ませていたホテルに戻ることにした。――背後に尾行する人影を確かに感じながら。



 ヨハンの宿泊する部屋のドアは、エレベーターが目視できる位置にある。後をつけてきた人物がエレベーターから降りてくるのを確認すると、ヨハンはそのまま部屋に入った。
 こちらが尾行に気づいているのは、あちらにとっても織り込み済みだろう。罠の可能性があるとわかっていても、“彼”に選択肢はないのだ。


 ヨハンはカードキーをホルダーに差し込み、部屋の照明を点ける。脱いだコートをハンガーにかけていると、部屋入口のドアをノックする音が鈍く響いた。やはり“彼”だ。ドアを開けると、見知った人物が勢いよく部屋に滑り込んでくる。
 ――Dr.テンマだ。
「ヨハン、もう逃がさない……!」
「僕だとよくわかりましたね。誰も見抜けなかったのに」
 ヨハンは元の低い声でそう言うと、何事もなかったかのように部屋の中へと移動する。ダブルベッドのそばで立ち止まり、険しい顔つきでヨハンに銃を突きつけているテンマに向きを変えた。


 テンマの変貌は一目瞭然だ。逃亡前の面影はなく、髭を剃る余裕もないほど荒んだ姿に変わり果てていた。だが、その黒い目は鋭く輝きを放ち、研ぎ澄まされた気配さえ漂わせている。
 ここへ来てさらに孤独感を際立たせるテンマに、ヨハンは内心笑みを浮かべる。今のこの姿こそ、長くヨハンを追い続けてきた証しなのだ。


「プラハ周辺で起きる事件が私の時とあまりに酷似しているんだ。いやでもわかる。ヨハン、君以外にあり得ないんだ」
「ええ、そうね。私の意図が伝わって本当によかった」
 突然、女の声色を使い出したヨハンに、テンマは怪訝な顔を見せる。
「その声、その姿……妹にまで濡れ衣を着せるつもりか?」
「濡れ衣? いいえ、まさか。あの子は私で、私はあの子……。けれど、私の名はアンナ。アンナ・リーベルト」
「何を……」
「ねえ、Dr.テンマ。ニナかアンナかなんてどうでもいいことでしょう? ――だから今は、私だけを見て」
 テンマに近づくと、ヨハンは銃を左手で退け、彼の頬に右手で触れた。反応を楽しむかのようなヨハンにテンマは苛立ち、ヨハンの手を弾く。
「からかうのはよせ! ――それよりも、まず訊きたいことがある。エヴァをどこにやった?」
「さあ?」
「とぼけるな!」
 テンマは銃を構えつつ、グレーのコートからヨハンの手紙を取り出した。
「この手紙は君だな。ホテルから消えた彼女の行方も当然知っているはずだ。もう人が死ぬのはたくさんだ。エヴァも誰も死なせはしない!」
「ヴォルフ将軍のようになるのが怖い?」
「な……!」
 ヨハンが低く冷たい声で問いかけると、テンマは絶句し、その漆黒の目を大きく開かせた。


 もちろんヨハンはテンマの周囲の人間を殺すつもりなど、さらさらない。
 エヴァ・ハイネマン、ディーターという少年、Dr.ギーレン、BKAのルンゲ警部、511キンダーハイム出身のグリマー……Dr.ライヒワインに至っては彼がテンマと接触したため、途中で殺害するのをやめたほどだ。
 だがそれについては露ほども匂わせず、ヨハンは静かにテンマを追いつめていく。


「本当のヴォルフ将軍を知る者はもうほとんどいない。名前を奪われた彼は、最期に終わりの風景を見る。そしてそれはあなたもだ。Dr.テンマ」
 テンマの身体が微かに震え、その目に怯えの色が走るのをヨハンは見逃さない。
「……私はどうなってもいい。だから――彼らにだけは絶対に手を出すな!」
「僕を助けることで命は平等だと気づいた。確か、そうでしたね」
「…………!」
「あなたの大切な人たちと僕を天秤にかけて僕を殺す? 大学図書館でロベルトを撃ったように。だけどそれを果たした時点で、あなたの信条は泡と消える」
 ヨハンがさらに追い打ちをかけ、テンマは言葉を失う。Dr.テンマという人物は、ともすれば相手に嗜虐心を抱かせる何かを持っているらしい。
 ヨハンはゆっくりと額を指差し、テンマを挑発する。
「さあ、僕を殺せばいい」
「ヨハ……」
「僕を殺して。どうしたの、手が震えてる。それじゃ、僕を殺せない」
 ヨハンは歩み寄り、テンマの手首を捻り上げる。テンマはうめき声を漏らし、その弾みで銃を床に落とした。次の刹那、ヨハンはテンマの身体を仰向けのままベッドに押し倒す。そのまま圧し掛かると両手を押さえつけ、脇を両膝で挟んでテンマの動きを封じた。


 一瞬で窮地に追い込まれ、抵抗を試みるテンマ。だがヨハンの優位は揺るがない。焦りの色を見せたテンマの表情を、ベッドサイドの照明が薄暗く照らす。
「くっ、ヨハン、何を考えている!? その手を離せ!」
 ヨハンは答えず、テンマの両手首を彼の頭上にやると易々と紐で縛り上げた。
 さらに薄手のジャケットから包装シートを小さく切った薬をいくつか取り出し、錠剤を口に含む。テンマの後頭部を押さえると、その唇を塞いだ。拒否反応を示すテンマに、舌と唾液で無理やり薬を流し込んでいく。テンマの喉がごくりと嚥下の音を立てると、ヨハンは一旦唇を離した。
「な……何を飲ませた?」
「ただの睡眠薬だよ。即効性のものと併用してね。あなたには一晩ほど眠ってもらう」
 ヨハンは再び唇を塞ぐ。
「や、やめっ…ヨハ……っ」
 顔を逸らして拒もうとするテンマの頭を、逃れられないように両手で強く押さえ込んだ。執拗に舌を絡ませ、貪るように吸い上げる。テンマを翻弄するようにあらゆる刺激を与えていく。


 ――なぜなんだろう。
 テンマの唇を奪いながら、ヨハンは心の中で自問する。薬を飲ませるという当初の目的を果たした今、もうこの行為は意味をなさない。にもかかわらず、ヨハンはテンマとのキスをやめることができない。
 ――今はアンナの姿だからだろうか。それとも。
 欲望とも激情ともつかない衝動を、ヨハンは感じずにはいられない。このままヨハンが望めばこれ以上のことも――。


 次第にテンマの抵抗が弱くなっていく。薬が効いてきたのだ。身体の力が抜けているらしく、動きが鈍い。ヨハンは口を離す。
「……そろそろ効いてきたみたいだね」
「う……ま…だ……わけ…には……」
 テンマの表情は朦朧として、声も小さく聞き取りにくい。
「……ヨハ…なに…かんが……な…ぜ…こ……とを…………」
 テンマは意識を保とうと必死に喋ろうとするが、努力も空しく、ついには深い眠りへと落ちていった。


 テンマが完全に眠ったことを確認すると、ヨハンはテンマのコートから古びたメモ帳を取り出す。
 ヴァーデマンのメモだ。
 ヨハンの狙いはこのメモにあった。赤いバラの屋敷と怪物に関する箇所をすべて記憶すると、再びメモを彼のコートに戻す。さらにテンマを縛っていた紐をほどき、赤く痕の付いた両手首を下ろした。
 デスクに移動し、ヨハンは備え付けのメモにさらさらとメッセージを書いていく。『宿泊費はこちらで払い済みなのでご心配なく』『赤いバラの屋敷で待っている』との旨を書くと、メモと共にテンマの銃をベッドサイドに置いた。


 一息つくと、ヨハンはベッドに腰を下ろし、テンマをじっと見下ろした。顔を歪めるだけだった先ほどまでとは違い、テンマの寝顔は安らかだ。無防備と言ってもいい。
 ふと、キスの間自らを埋め尽くしていたあの衝動を思い出す。
 ――この僕が、あんな感情を抱くなんて。
 以前とは明らかに変わってきている自分を思う。


 ヨハンは規則正しい呼吸で眠るテンマをしばらく見つめた。偽りではあるが、束の間のささやかな安らぎを確かに感じて。
 屈んでテンマの唇にそっと触れるだけのキスを落とす。
「おやすみなさい、Dr.テンマ。……良い夢を」
 ヨハンはコートをはおり、部屋を出る。テンマへの未練を断ち切るように、既にチェックインを済ませている別のホテルへと向かった。

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