ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第六話「領内多事多端」




 侍従武官補に王太女付きの臨時講師、侍従長配下の相談役等々……。

 リシャールは用意された宮中職の中で、上役が侍従長しか居らず部下を預かる必要が無い上、登城に融通の効きそうな『見聞役』という、どうとでも解釈出来そうな役職を頂戴してセルフィーユへと帰ってきた。
 王の目王の耳として内外より広く情報を集め、それらをまとめて王へと報告をするのが見聞役の主な仕事だった。
 だが、情報を扱う職には変わりなくとも、間諜や密偵とは違って諜報活動や裏面の仕事に関わるような重職ではない。見聞きした市井の様子を面白おかしく奏上して王の無聊を慰める、言わば道化師や楽師と一括りにされる語り部ような仕事が期待される職であった。
 危なく他の宮中職と兼職にもされかけたが、流石にそちらは断っている。
「あら、じゃあたくさん旅行に行かないと、話題に困るわね」
 帰城後に事の顛末を聞いたカトレアが楽しそうだったのが、僅かばかりの救いだった。

 王都訪問中に溜まった書類仕事を数日掛けて済ませると、リシャールは予定されていた幾つかの面倒事に取りかかることにした。
 自分も毎日帰宅も出来るように予定を調整し、関わる家臣達もなるべく残業をせずに済むよう気を配ったが、昼夜兼行で仕事に取り組む者もいた。
 新たな大砲の試作に取りかかっている、武器工場のフロランである。
 そこまで急ぐようなものではないのだが、本人がやり甲斐を見出しているところに水を差すのも悪いかと、目の下にくまを作らぬ事だけを約束させて後は好きにさせていた。
 彼に設計と試作を任せているのは、ガーゴイルや竜を追い払える艦載用の大砲である。先日の海賊襲撃事件で敵に使われた、ガーゴイルによる攻撃を重く見たのだ。後になってカトレアまでが杖を構えたと聞かされたリシャールが試作を強く推奨したのだが、話を持ちかけた時、ラ・ラメーは流石にあんなものですと涼しい顔で、またフロランはきょとんとしていた。
 最初は自由に角度が変えられて回転する台座のついた、リシャールの良く知る高射砲様の小口径砲を提案してみたのだが……。
「あー、閣下、おそらく製造は可能ですが、少なくとも重量と操作性は要求を満たせず、実用性の低い物が出来上がってしまうと思います……」
「流石に艦尾楼にこの大きさの物は配置できませんな。
 まだしもゴーレムに小口径砲を持たせ、砲台にして使う方が融通が効きますぞ」
 残念なことにリシャールは、現代世界の大砲ではほぼ必ず使われている駐退機や復座機については知らなかった。故に台座は極端に重くなり、その重量で反動を支える方法を取らざるを得なかったのだ。知っていればまた別の方法があっただろうが、いきなり思い付けというのも無理な相談である。
 更には検討中に、その重量から目標への追従速度が余り高くできず、その為に命中率が極端に低くなる可能性も指摘されたので、ではと次に検討したのが一度に数を撃てる散弾専用の大砲であった。これならば余り精密な照準が要求されない上に、構造も現用の大砲と大して変わるまいと、フロランらも頷いた。
 指示をした内容も目標の相手は竜やガーゴイルで、散弾専用の砲としてなるべくならば小型、数メイル四方の狭い場所でも使えるようにすることといった点だけに絞った。複雑な機構のついた物はセルフィーユでは作れないし、製造に要する時間も長くなり製造費用も上がってしまうと、原点に立ち返ったのである。
 暫くして出来上がってきたのが、以前に設計された曲射と平射を切り替えられる新型の四リーブル砲を元に、砲身長を短くして砲口を若干だけ喇叭型にした散弾砲である。目標が近づくのを待って発射するので、概略方位を指向できればそれでよいと、台座などには大きな改良を加えていない。比較的軽量で操作の手間も少ないと聞かされているが、こればかりは試射してみないとわからなかった。
 当初より、葡萄弾と同じ直径二サント強の大きな子弾を使っても竜体の外皮を確実に破って撃墜を期待出来る距離は約三十メイルと短く、その上子弾の数が少なすぎて命中率が低いことが検討会の席上でも取り上げられている。嫌がらせに使えれば十分とするか、実際に効果がないとただの重石と見るか、意見は分かれていた。
 マスケット銃と同じ弾を子弾に使用した場合、計算上の有効射程は約五十メイルで、一度に撃てる数が多く命中が期待できた。運が良ければ乗り手が落とせるだろうが、こちらは竜そのものには大きな被害は与えられない。
 どちらにせよ、面積が極狭い艦首楼艦尾楼上でも使えることが前提であったため、砲を大きく作れなかったことが原因である。
 それでも、もしも試射で良い成果を見せるようならば、搭載艦に改造を加えてでも大型化するのもよいだろうと、皆で試射の日を楽しみにしていた。

「こちらの準備は完了であります、領主様!」
 試射は練兵場の一角で行われた。
 船上を模して分厚い木板が敷かれ、その上に船舶用の台座に乗せられた散弾砲が鎮座している。帆綱で木製の支柱と結ばれて後退距離を制限されており、実際の運用時になるべく似せた状態を再現するべく、準備は念入りにされていた。
 隣には野砲架に乗せられた同じ物が傾斜した砲陣地上に据えてあり、発射薬や弾丸は試射場のすぐ隣に掘られた小さな塹壕にしまい込まれていた。万が一の暴発でも、火の粉を被って連鎖爆発せぬように工夫してあるのだ。それから少し離れて待避所や塹壕が数カ所作られ、そのうちの一つでレジスやラ・ラメー、フロランらが試射を見守っている。
 リシャールは身長二十メイル程の、自身が用意できる最も大きいゴーレムを作って大きな的板を両手に持たせ、散弾砲の前方に動かした。
 大きさは十分に自慢できるほどだが、ひょろ長い印象で動作も緩慢な上に、打たれ弱くて工事や実験にしか使えない。これはこれで便利なのだが、同じトライアングルの土メイジである父などは攻城戦に使えるほぼ同じ大きさのゴーレムを素早い動きで操っていたから、精進が足りないだけかもしれない。
 一度目の試射は、マスケット銃弾を子弾にした試射であった。最初から大きい子弾で撃つとゴーレムが壊れる可能性が高い為、多少なりとも作成の回数と手間を減らす苦肉の策だ。無理ではないが、魔力には限界もある。
「もう少し右かな?」
 砲身に顔を寄せ、ゴーレムの腕を上げ下げして位置を微調整する。
 距離が近く、動く的でもない上に散弾を使うから、それほど気を使う必要はない。
 納得したところで、十数メイル走ってフロランらの居る待避所に駆け込んだ。
 入れ替わりにレジスが操る等身大のゴーレムが、たいまつを持って散弾砲へと走っていく。本来ならば発射係の砲員が火縄を付けた長い棒を使って点火するのだが、大砲と待避所に距離もあるので繊細な動作を要求される手順は組まないようにされていた。
「発射しますぞ!」
 全員が頷き、散弾砲に注目する。
 レジスの杖が振るわれ、一瞬の間を置いて轟音と白煙が周囲を圧倒した。
 ここから見る限りは、通常の砲に比べて幾分白煙が多い程度だろうか。
 今度はラ・ラメーが杖を取り出し、風で砲煙を払った。
 待避所から見る限り、試作砲が破損しているようなこともなく、発射時に砲員の定位置とされている場所に立っていたレジスのゴーレムも無傷である。第一段階は成功だった。
「良いようですな」
「ええ、検分に参りましょう」
 リシャールも杖を掲げてゴーレムに的板を降ろさせ、皆とともに試射場に戻る。フロランや工員らは既に砲に張り付いていた。ある意味、ここからが本番だ。
 威力や散布界、台座や帆綱の破損状況など、諸元表を埋めるために集めなくてはならない情報は多い。この作業を疎かにすると、何が良くて何が悪いのか客観的に見ることが出来ず、改良にも売り込みにも困るのだ。設計段階で予想したものと大幅に食い違う点でもあれば、基礎から見直しを迫られることもあった。
「散布界は思ったより広いようですね。
 弾幕が粗になりすぎているかもしれません」
 ラ・ラメーやレジスは的板の方に集合していた。リシャールもこちらに加わる。このあたりは設計側と用兵側の砲に対する姿勢の違いでもあり、役どころの違いでもあった。
「的板の食い破り方は概ね良好でありますな。
 これならば、乗り手には六十メイルあたりまでは有効との判定を下せます」
「ふむ、最初はどのようなものかと懐疑的でありましたが、これはなかなか悪くない。
 試射を見る限り銃兵よりは余程有効でしょうな。
 三名の銃兵で三発撃つ間に、こちらだと同じ三名の砲員で数十発撃てる計算になります」
 概ね良い評価と言えるだろうか。リシャールも穴のあいた的板と、一部が壊れている特大ゴーレムを見て頷いた。
「次は平射でしたな。
 ……よし、第一班は再装填にかかれ! 砲の角度は水平、装薬量と弾種は先ほどと同じだ!」
「第二班は的板を地上に配置せよ!」
 射角や装薬量のみならず、装填する弾種も様々なものに変更して試験が続けられた。既存の大砲ではここまで徹底はしないが、新種の兵器にはそれなりの苦労がつきまとう。この作業を散々に繰り返すことで改良点を洗い出し、あるいは効率的な運用の為の手順を作り上げ、ようやく兵器として一人前になるのだ。
 もっとも、実際に使われるまでは効果未知数の新兵器でしかなく、実戦経験後に失敗作の烙印を押されてしまうことも多々あった。

 改良と試射を重ねて概ね合格とし、散弾砲の件が一段落した月の変わり目になって、アルビオンのウェールズ皇太子とトリステインの王政府、ついでに長期に渡ってラ・ロシェールに留め置かれていた『ドラゴン・デュ・テーレ』のビュシエール副長より相次いで連絡が来た。
 これらは全て同じ事柄に関連する内容であった。リシャールらが拿捕した後、ラ・ロシェールに繋がれていた空賊船改めアルビオン船籍の両用フリゲート『ヴェリテ』号の処遇に、ついに決着がついたのだ。
「……参ったなあ」
 結局、所有権を取り戻したい商人の懇願を受けたアルビオン王政府と、税収と面子に拘泥するトリステイン王政府との交渉は、二ヶ月近くに及んだ末に別の調停案が通ることになった。
 実質三角交渉に近い形になった末に、アルビオン空軍の余剰艦艇より、乗員を他艦に奪われて保管艦となっていた旧式の大型スループを多少安い価格で譲渡することとなり、件の商人が主張を撤回したのである。彼もフネが無くては死活問題と周囲より鬼気迫る勢いで借財をかき集め、交渉金額を少しでも上乗せしようとしていた様で、正に渡りに船であったことだろう。『ヴェリテ』号そのものでなくとも商売は続けられようし、この提案を蹴るとそれこそ首が締まってしまう。
 おかげで、トリステイン王政府は交渉こそ長引いたものの税はセルフィーユ伯爵より得ればよいので元より損はなく、アルビオンにしても昨今の内乱のあおりで余剰となったフネを処分して現金化しただけと、三方丸く収まって良いことづくめだった。大岡裁きでもないだろうが、アルビオン王政府および王立空軍の温情溢れる判断と提案に、商人は大変恐縮していたそうだ。
 ところが、これに困ったのがリシャールである。
 表だって口には出せないが、出来ればこの両用フリゲートは交渉を乗り切った商人が買い戻してくれれば、心底ありがたかったのだ。
 私掠に対する王政府からの課税だけでなく、その維持費用にもため息が出てしまう。
 リシャールにももちろん、三隻あれば現状の二隻では不可能だった余裕のあるローテーションが組めて、整備にも船員の休暇にも融通が利くことは分かっている。
 海上を行けば飛躍的に航続距離を伸ばせる両用船のこと、新たに航路を開くことも可能だろう。冬場は『冬の嵐』と呼ばれる悪天候が続く北方諸国とも、夏ならばゲルマニアを介さずに行き来できるかもしれない。あるいは逆に、ガリアを大回りする航路でロマリアと結ぶことも可能だろう。実際には新参のフネが付け入る隙がない可能性もあるが、そのあたりは後で良い。
 しかしここでもう一隻追加となると、搭載砲の大半を地上に降ろし商船として扱うにしても、新たに雇わねばならない水兵の給与と運航費用で、年に軽く一万エキューは飛んでいく。現在領空海軍は空港に常駐する整備兵まで合わせれば百五十名を越えるの大所帯だが、乗組員を可能な限り減らして対応しているのが現状である。しばらくは空港に係留して、じっくりと修理することになっていた。
 乗組員への報奨金は、ラ・ラメーの一声でトリステイン空海軍の規定に倣った評価額の一割の比率で勘弁して貰ったが、これも自弁しなくてはならない。これが例えば私掠を生業とする傭兵が諸侯に雇われて作戦に従事していたとすると、三割の私掠税を支払った残りの半分、三割五分が船長以下乗組員の取り分となっていたわけで、リシャールは胸をなで下ろした。夜の錬金鍛冶をしばらく頑張ればなんとかなりそうだと早速仕事を増やしたのは、報奨金を貰って素直に喜んでいる水兵たちには話せない事情である。
 更なる追い打ちは、王政府の評価額そのものがこちらの予想よりも大きかったことだ。支払いの期限こそ年末だが、その金額は算定された私掠評価額十一万六千エキューの三割で三万四千八百エキューと、リシャールの懐に重くのし掛かってきた。
 『ヴェリテ』号を迎えに行くため、喜々として『ドラゴン・デュ・テーレ』に乗り込んでラ・ロシェールに向かったラ・ラメーの表情と、それを少しばかり重い気分で見送ったリシャールの表情の落差については、言うまでもない。
「そこそこ良いフネが、安く転がり込んできたと思えば……」
 リシャールは自分に言い聞かせるようにして、呟いてみた。

 リシャールも大砲だフネだと、大金の出ていく興味深げな物ばかりに気を掛けていられるわけではなかった。
 領政は落ち着いてきたが、一つ新たな手を打つと、別の場所に無理が偏る事も多い。庁舎とそこで仕事をする官吏達は領地を支える重要な屋台骨であり、自分のみならず領民の生活にも直結するから、仕事の大半は任せるようになっても自分で確認せねば不安は残る。
 故にリシャールは、所用で王都や領内各地に出る用事でもなければ、昼間は庁舎の執務室で来客か書類を待っていることが殆どだった。
「領主様、こちらが春の収穫についての一時報告書です。
 まだ西サン・ロワレとラ・クラルテの報告を待たねばなりませんが、総じて平年並みからやや不作かと……」
「うん、ありがとう。
 ……例年通り、飢えるほどではないけど良くはない、と。
 またシモン殿に注文しないといけないかな」
 錬金鍛冶のように即効性のあるものはやはり一時的かつ限定的な効果しか生まない。街道工事や新航路のような恒久的に利益を生む手だては、時間も投資も多く必要とする上に、結果が出るのにやたらと時間が掛かる。収益の自然増を狙って地道な領内開発も続けているが、やはり劇的な効果は期待できなかった。
「備蓄の方は去年と同じように取り崩して、今年の麦と入れ替えるようにしてください。
 マルグリット女史とギルドのリュカ殿にも、きちんと話を通して……ああそうだった、発注の方は私から手紙を送るからと、マルグリット女史には伝えておくように頼みます」
「はい、畏まりました」
 マルグリット配下の官吏を見送って、リシャールは受け取った書類を再び眺めてみた。畑の面積も収量も去年の倍以上になっているが、人口も同じように伸びているので、領内の麦自給率から見ればやや後退というあたりになってしまう。
 同じ食料品でも水産物は必要量を満たしているが、領内消費量が増えるに従って、領外への輸出は若干減少傾向にある。豚を中心とする畜産も、アーシャの消費分はともかく、やはり大きく伸びているわけではなかった。旧領にある農家への貸出分から食肉加工にまわす分を幾らかセルフィーユ家で引き上げて新領にある農家の希望者に宛ってはいるが、年一産の豚が急に増えるわけでもなく、来年以降に期待するしかない。
 このように、報告を受けては担当者と検討を重ねたり、微細な修正を加えたりもしているが、基本的には現場に任せることが多くなった。家臣らもセルフィーユ家での仕事そのものに慣れてきた上、報告書や始末書から要点を抜き出して仕事の流れや注意点を説明した手引書の類が充実してきたおかげでもある。これらはリシャールが指示をしてマルグリットが中心となって作成したが、新人は仕事の前にこれを読まされ、中堅どころはプライドが邪魔をして人に聞き難い細かいことを確認した。明確な基準を文書にしておくことで、トラブルを未然に防ぐ効果も合わせて期待していた。
 これら手引き書にこれまでに発布された布告をあわせれば、明文化された法律ほど堅苦しくはないが、領内慣習法と呼んで差し支えのない枠組みが出来上がったことになる。約束事や判断の基準が決められていれば、細かな仕事は担当者が自分の裁量で行えるようになるから、似たような内容の問題でリシャールやマルグリットの手を煩わせることも減るし、庁舎全体としては効率化が進む。
 では、それで全てが上手く行くかと言えば、残念なことに諸刃の剣となってしまう土台でもあった。この約束事に対して杓子定規な解釈と行動を徹底してしまうと、リシャールらの手は煩わせなくとも、今度は逆に『お役所仕事』、つまりは処理の重い非能率な組織へと転落してしまうわけで、匙加減の難しい問題である。
 それでも大きな進歩だと、リシャールは見ていた。
 昔は新人が入ったならば文字を教えることから始めていたようなセルフィーユの庁舎だったが、今はもう、そのようなことはない。下働きとして日銭仕事をする者はそのまま実働部隊に組み込まれるが、新教徒であることを隠してセルフィーユへと移り住んできた元貴族やその子弟などはよほどの年少でない限り文字の読み書きが出来たし、村の子供などが募集に応じて庁舎の扉を叩いてきた場合は、文字が読めなければそのまま聖堂付属の学舎に放り込まれて、一定の能力に達したと卒業を認められるまではそちらで学ぶことが仕事になった。
 更には領政の細かな部分がこちらの手を離れれば、リシャールは舵取りに専念出来るようになり、余力を別の事に回せる様になる。例えばそれは大砲の試射であったり、錬金鍛冶であったり、各地への出張だったりするのが、少しばかり微妙なところだったが、こちらも大きな進歩だろう。
 領内の食糧事情についてメモなどを書き付けていると、もう次の来客である。
「エライユの村長が陳情に来ております」
「もうそんな時間か……。
 こちらに通して下さい」
「はい、畏まりました」
 領地が大きくなった分、舵取りは舵取りでそれなりの忙しさもあるのだ。

 この様に、春から夏にかけてはそれなりに忙しかったが、特別大きな事件に遭遇したわけでもなく、夕方には家に帰って錬金鍛冶をする合間に、子供部屋でマリーが遊ぶ様子をカトレアと共に眺めたりする余裕はあった。
「んば!」
「うんうん、上手だなあ」
 鹿皮の中に綿を詰め込んだボールを、ゆっくりとした大きな動作でこちらへと投げるマリーに目を細める。彼女の祖父から送られてきた大荷物の中から見つけた物だ。彼女の腕力ではまだ五十サントも転がらないが、半年と少しの人生では大きな進歩であろう。
「そろそろつかまり立ちをするかもしれないんですって」
「もうそんなに……。
 赤ん坊の成長は早い早いと聞いていたけれど、ほんと、あっという間だね」
「あーう!」
 彼女はボールを投げ返さないリシャールに怒ったのか、はいはいでこちらに近づいてきた。
「ごめんごめん。はい」
「あー」
 毛布を敷き詰めた子供部屋のこと、マリーはもちろん、リシャールもカトレアも入り口で履き物を脱いで床に座っていた。
 足下の開放感は和室の様でいいなと、マリーの為に用意された子供部屋本来の意味とはまた別の効果に笑顔になる。
 人伝に聞いたと偽って、和室に近い作りの小部屋を自分の楽しみのために用意するのもいいかもしれない。今住んでいる城館はもちろん身に過ぎるほどの大きさや規模を誇っていたが、当然ながら中身も洋館建てで床に寝転がるようなことが出来るはずもなく、ソファやベッドを利用するしかなかった。
 居間での家族団欒が悪いとは思わない。しかし、この子供部屋でのカトレアやマリーとの距離感は、また格別に感じる。
「よいしょ……っと」
「あう?」
「うん。
 マリーは大きくなったなあ、と思って」
 首が座っていないからとおっかなびっくり抱いたことを昨日のように思い出しながら、彼女を抱きかかえる。
「そう言えばリシャール、そろそろ王都へ行かなくていいのかしら?
 春にお役目を貰ってから、一度しかお城に出かけていないみたいだけれど……。
 少し気になっていたのよ」
「ああ、うん。
 今はアンリエッタ様が立太子式の準備でお忙しいらしくてね、しばらくは登城しなくてもいいみたい」
 見聞役に任命されてからまだ一度しか登城していないが、その時アンリエッタとは、拝命の挨拶をして数分の雑談を交わしただけであった。いや、雑談と言うよりは、彼女の愚痴を聞いていたと言い換える方が正しいかも知れない。その後に尋ねたラ・ポルト侍従長やマザリーニ枢機卿との会話の方が、話した時間なら十倍も長かった筈だ。
「前任者の……とは言っても先代のアンリ陛下にお仕えされていたお方だけど、その方は二、三月に一度ぐらい登城されていたそうだから、僕もそれぐらいの間隔で王城に行くことになるかなあ。
 ラ・ポルト侍従長からはそう聞いてるよ」
「もっと忙しいのかと思っていたわ」
「うん、忙しそうな仕事は流石に勘弁して貰ったよ。
 あれもこれもじゃ、雁字搦めになって身動きがとれなくなってしまうからね」
 小さく肩をすくめて、リシャールは戯けて見せた。
「どちらにしても、 来月ニイドの月には立太子式があるから、みんなで王都まで行くことになるかな」
「ええ、そうね」
「あうー」
 役目を割り振られていない上に諸外国の招待客も少なく、一般の貴族は先年の園遊会の時ほど忙しくはならないと聞いている。式への列席とその後のお披露目だけならばそんなものかなと、気楽に受け止めているリシャールだった。




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